こころの安らぎ文庫

元精神科ナースらが立ち上げる電子書籍のレーベル。恵まれない犬猫の為に、売上の全額を犬猫愛護団体(保護実績250頭/年:三重)に寄付しています。

人の死に慣れない人・慣れる人、どっちが正しい?

読者様、いつもご覧いただきありがとうございます。

 

私は16年看護師をしてきて

ついに辞めました。

 

看護の世界で、好きになれないところがあって

病院って、人が亡くなること多いじゃないですか?

看取りっていうのがあるのです。

患者さんが亡くなった時に立ち会い

亡くなったら最後のケア、ご遺体を拭いたりチューブ類を抜いたりします。

 

この看取りなのですが、新人看護師など

初めて人の死を見てショックを受ける看護師がいます。

まれにですが、人の死にショックを受け続ける看護師もいます。

 

一方、ベテランになってくると、亡くなった直後から

ナースステーションで雑談をして高笑いしたりする人もいます。

 

これが

「死に慣れない人」と「死に慣れる人」の違いです。

 

どちらが多いかというと、大体の看護師はある程度

人間の死に慣れていると思います。

 

というのは、人の看取りが辛くて看護師を辞めた人は

私は聞いたことがないからです。

 

あとは、人の死に慣れていることをベテランになったという

ひとつのステータスにしているような人もちょこちょこいるからです。

 

私は、16年間でたくさんの方を看取らせて頂きましたが

全く慣れないんです。16年も看護をやっておきながら。

人が亡くなると、ズドーンと落ち込むんです。

亡くなった後、ご遺体を拭き、管を抜き、着替えさせて頂いたりするケアを

エンゼルケアとか、エンゼルと言ったりします。

 

私はエンゼルのたびにショックを受けます。

人の死を看取るというのが、耐え難いほど重たくのしかかるのです。

生きていればいつかは死が訪れます。しかし看取りをしていると

逆の発想になるんです。

亡くなったということは、産まれてきた時があったということです。

産声を上げて産まれてきた人生のスタートがあったわけです。

そして、長い人生を生き抜いて、最後ご遺体となる。

このように考えると人にとって

産声を上げるのが初めてのイベントなら

死は人生の最後のイベントです。

どちらも人生に1回しか起こらない、大切な出来事なのです。

 

私はエンゼルケアをするとき、その方が産声を上げて

人生を始めようとしているところを想像します。

そしていま、それが終わったことを感じとります。

死とはとても厳かで尊重されることだと思います。

私は悼みながらエンゼルケアをします。

 

こういう風に言うと、人の死がしっかりとした重みのある

ライフサイクルイベントだとわかるでしょう。

 

ただ、私はエンゼルをするたびに

その方の人生に思いを馳せ、悼みます。

それはとても精神力のいる作業です。

 

死に慣れていない人は、人が亡くなるごとに精神力を使います。

死に慣れている人は、「次の患者さんがいる」などと言って

すぐ雑談なんかで高笑いできます。

殆どの看護師は死に慣れていると思っています。

そうでなければ看護は成り立たなくなってしまいます。

 

私は死に慣れなかった人です。

 

10年目くらいの時に、悼む精神力に限界が来て

「看取りの少ない病棟に行きたい」

と泣きながら上司に言いました。

 

振り返ってみると、人の死で精神力を削り取られることに

慣れていかなければならなかったのかもしれません。

 

死に慣れない私は看護師には向いていなかったのです。

 

ところが、最近、初めて「死に慣れない」という医療者に会いました。

医療者の口からそういう言葉を聞いたのは、この時が初めてです。

 

その方は獣医師です。ご年配で保護犬・保護猫活動をして

極めて安価で、場合によっては無料で恵まれない犬猫を治療し続けているのです。

その方から私は猫をお迎えしました。

久しぶりに会いに行ったとき、その言葉を聞きました。

 

「私、沢山ワンちゃんや猫ちゃんを看取ってきたけど、これだけは慣れないんです。でも、次から次へ恵まれない犬猫が沢山来るから、立ち止まらず何とかやってきたけど、看取りだけは慣れないんですよね。」

 

 

私が会いたかった医療者に出会えた。

そう思えた刹那でした。

 

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